山盛りごはん三杯

映画鑑賞記録

映画/かぐや姫の物語/優しさの断絶と絶望の物語

観終わった後、これは感想を書かねばと思いつつ、後から後からじわじわと色んな思いが浮かんできて、どうまとめようかと悩んでいるうちに日が経ってしまったわけですが。

以下、ネタバレ注意。

 

 

物語自体は、竹取物語そのままで、大きく展開を変えてはいません。竹取の翁が竹を取りに行き、根本が光る不思議な竹の中に女の赤ちゃんを見つけ、連れて帰って育てたものの、美しく育った姫は言い寄る貴人たちを相手にせず、やがて帝から求婚されるものの、やはり受け入れることはなく、月からの迎えに応じて、生まれ故郷へと帰っていく――。

誰にでもお馴染みのこのストーリーは、平安時代の女性の生き方が描かれているにも関わらず、現代にも通じる女性の幸せとはなにかと問いかけていて、男たちに翻弄され、もがくかぐや姫の姿は胸が痛みました。

しかし、彼女に関わる人達は皆、彼女を不幸にしようとは誰も思っていないのですよね。むしろ、彼女を幸せにしてあげたいと願っている人ばかりだった。にも関わらず、彼女は月の世界であれほど恋い焦がれた地球を拒絶する瞬間を迎えてしまい、月へ帰らざるをえなくなってしまった。

その月の人達ですら、かぐや姫の幸せを望んでいたという皮肉――……

翁が竹を取っている間に、たけのこが他の子どもたちに興味を惹かれ(幼児は大人より子供の声の方が好きだよね)、ついついていってしまい、彼女を見失った彼は子供を迷子にしてしまったと思い込み、「たけのこ、たけのこ」と自分が迷子になったかのように切ない声で子供の名前を呼んでるシーンがあります。翁がどれほどたけのこを愛しているかが分かる名シーンで、ここは地井武男さんでなく三宅裕司さんの声だと思いますが、親の愛が痛いほど伝わってきます。

だからこそ翁は、月から与えられた着物とお金で、姫に最高の幸せを与えようとするのですよね。この時代で考えられる、女としての最高の幸せ。教養を身に着け、一流の男たちに見初められ、結婚すること。翁にはそれ以外の女の幸せを知らないからこそ、疑いもなく田舎を出て都会へ向かう決意をするわけです。

そのために呼ばれた相模も翁の価値観に応え、田舎でのびのびと育った彼女に窮屈な行儀と教養を叩き込みます。(相模の声は高泉淳子さんだけど、ところどころロッテンマイヤーさんに聞こえたので、もしかすると意識して似せてるのかもしれないですね)

姫は相模の教育を嫌がってはいたけれど、相模は決して姫に嫌がらせをしてるわけではなく、むしろ、姫のためを思うからこそ、厳しい教育を施していたわけです。

やがて、姫は美しく育ち、噂を聞きつけた高貴な男たちが彼女に言い寄ってくる。もちろん彼らも強引に姫を手に入れようとするわけではなく、彼女の無茶な望みに応えようとした。ズルをしたものや、妻を追い出した者もいたけれども、それだって姫の望みを叶えるためにした行為だと思っている。

母親の嫗は、昔のように衣を織り、畑とかつて住んでいた場所の庭を作って、姫の気持ちに寄り添い慰めるけれど、姫に何かの幸せを提示することはできません。

おそらく嫗はこうして不平不満があるときは、気を紛らわす方法はあっても、何かを切り開いて自分の幸せを得ようとしようとは考えたことがなかったのではないでしょうか。だから、娘に幸せを教えてあげることができないのかもしれません。

 

そしてついに、国の最高の地位にある御門が姫に求婚します。しかも、かなり強引に彼女を手に入れようとしたものの、御門は自分が男として最高位にいる自覚があって、彼に求められることは女にとって最高の名誉であると信じてるわけです。だから、姫を手篭めにしても、嫌がられるなんて思いもしない。

だけど、姫はもともと月で聞いた歌から地球に恋い焦がれたわけで、別にいい男と結婚するためにこの世界へ来たわけではないんですよね。

月と地球の価値観の大きな断絶がかぐや姫の前には存在していたことを、ここでようやく彼女は思い知るわけで、ついに月に助けを求めてしまう。

しかし、月の住人たちもかぐや姫のことを思って月への帰還を促すのですよね。かつて、こんなに苦しいのなら、悲しいのなら、愛などいらぬと言ったキャラがいたけれど、感情があるからこそ苦しむのだから、感情なんて無い方がいいという理屈には筋が通っているのですよね。現世の苦しみからの解脱。姫はそんなことを望んではいないのに。

 

月の人たちも地球の人たちも、誰もが皆姫の幸せを願っているのに、姫の中には絶望がどんどん積もっていく。

 

月へ帰る前に姫は幼なじみの捨丸と会って、衝動的に彼と駆け落ちしようとする。二人が空を飛ぶシーンは、肉体的な交わりの暗喩だと思うけれど、ここでも二人の気持ちは断絶していると思うんですよね。

捨丸には妻子があることを、二人の出会いの前に残酷にも提示している。子供をあやし、妻と寄り添って歩いていた彼にとって、突然現れた美しく育った幼なじみの姫は、日常の中に現れた非日常の魅惑的な刺激であって、決して恋でも愛でもなかったのではないでしょうか。

かぐや姫にとっても、自分の中で美しく楽しかった子供時代の象徴そのもので、彼女は捨丸を愛していたというより、もう一度子供の頃に戻りたかっただけだと思います。彼女が愛した自然も、楽しかった子供時代の思い出そのもので、大人になることで失ってしまったものをもう一度取り戻したかったのでしょうが、大人だからこその行為で彼女はもう捨丸と過ごした子供時代へ戻れないことを痛感したんじゃないでしょうか。

月の世界からの介入で、捨丸とのことは夢としてリセットされたようですが、仮にあのまま二人で逃げたとしても、非日常の刺激としてかぐや姫を求めた捨丸と子供時代に戻りたかったかぐや姫との関係の果ては、あまり幸せなものにならないように思います。

 

こうして物語は、かぐや姫の最後の希望である幼なじみの男を選ぶ道すら潰してしまったわけです。

そして、原作の竹取物語のクライマックスの通り、陽気な音楽とともに阿弥陀来迎図を思わせる月の人々に迎えられ、感情をなくすことで現世の愛も苦しみも何もかも忘れ、翁と嫗の胸の潰れるような呼び声にも心動かすことなく、月へと帰っていった。

確かにすべての感情をなくしてしまうことは、死を連想せざるを得ない。彼女は月で生き続けるのだろうけど、翁と嫗にとっては、最愛の娘は死んだも同然に違いありません。

 

果たしてこの物語で語りたかったのは、かぐや姫と周囲の価値観の断絶なのでしょうか。

かぐや姫がたどった現世の女の人生のデッドエンドっぷりなのでしょうか。

 

 

ただ、手がかりとして、月からの使者が現れた時、誰もが身動きできないなか、笹を持った女童や子どもたちは動けているのですよね。

笹を持っているというのは、物狂いの描写なのですが、何の価値観にも縛られず、自分の思いに対して正直であるとも取れます。

月の人たちの調べに楽しそうな女童の姿こそが、この物語の中で一番の理想の生き方なのかもしれませんし、子供時代への憧憬の象徴なのかもしれません。

 

正直、観終わったあと、年寄りの考えることはよー分からん……でありました。

今もよく分からないです。高畑監督が何を伝えたかったか、描きたかったかというのは。

もしかしたら自分も70歳過ぎたら分かる答えがあるのかもしれません。

ただ、観ていた時よりも、観終わった後のほうがずっと、物語は重く、心の中に深く、痛みと御門の顎ともに存在しています――……